恩讐の彼方に [日本の近代文学]
「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」 菊池寛 (新潮文庫)
タイトル作など、菊池寛の初期の作品中、歴史モノの傑作を10編収録した短編集です。
菊池は「文藝春秋」を創刊し、芥川とは親友で、芥川賞を作ったことでも有名です。
菊池寛と言ったら、何といっても「恩讐の彼方に」ですよ!
これは、日本国民全員に読んでほしい。全高校生の必読書に指定してほしいです。
市九郎は、愛妾と通じて殺されるべきところを、逆に主人を殺してしまいました。
愛妾と逃げて強盗を働くようになりましたが、自分の罪を悔いるようになります。
一転して仏道に帰依し旅に出て、鎖渡しという難所で犠牲になった死者を見ました。
そして、二百間以上ある大絶壁を、自分一人の力でくり抜こうと決意したのです。
初め市九郎を笑っていた村人たちは、一年二年とたつうちに・・・
そして19年たったとき、市九郎の前に突然現れたのは・・・
「敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しか
も、自分が一度名乗りかけると、唯々として、命を捨てようとしているのである。か
かる半死の老僧の命を取ることが、何の復讐であるか」(P110)
敵とは何か? 復讐とは何か? 人は過去の過ちを正すことができるのか?
さまざまなことを考えさせられます。道徳の教科書にも出ているそうです。
「藤十郎の恋」も、有名な物語です。
坂田藤十郎が近松門左衛門から与えられた狂言は、命がけの恋を描いたものでした。
しかし、そのような恋をしたことのない藤十郎は、どう演じていいか分かりません。
そこで彼が思い立ったことは・・・その結果、ある悲劇が・・・
「忠直卿行状記」もまた、とても考えさせられる物語です。
槍術の大仕合で家来を次々と破った忠直卿は、偶然意外な言葉を立ち聞きしました。
忠直が真槍で勝負したところ、罪を自覚していた家来たちはどうしたか?
傷を負って屋敷に運ばれた彼らは、そのあとどうしたか?
「忠直卿は、つくづく考えた。自分と彼等との間には、虚偽の膜が、かかっている。
その膜を、その偽(いつわり)の膜を彼等は必死になって支えているのだ。その偽は、
浮ついた偽でなく、必死の懸命の偽である。」(P56)
こういう文章を書かせたら、菊池寛は抜群にうまいです。
非常に練られた文章が、物語の完成度をぐっと上げています。
「形」はわずか4ページ足らずの小品ですが、鮮烈な印象を残します。
槍の名人中村は、自身の猩々緋の羽織を、若い武士の初陣に貸してやります。
「あの羽織や兜は、申さば中村新兵衛の形じゃわ。」
若武者の初陣は成功しますが、しかし、猩々緋を貸した中村は・・・
さて、「恩讐の彼方に」が書かれたのが、大正8年でした。
その翌年の大正9年には「真珠夫人」が書かれました。ギャップが大きすぎる。
さいごに。(電卓じゃないって)
私がついこのあいだまで使っていたケータイは、AUのsportioというガラケーです。
「お洒落な電卓ですね」とよく言われました。・・・電卓じゃないし。ガラケーだし。
タイトル作など、菊池寛の初期の作品中、歴史モノの傑作を10編収録した短編集です。
菊池は「文藝春秋」を創刊し、芥川とは親友で、芥川賞を作ったことでも有名です。
菊池寛と言ったら、何といっても「恩讐の彼方に」ですよ!
これは、日本国民全員に読んでほしい。全高校生の必読書に指定してほしいです。
市九郎は、愛妾と通じて殺されるべきところを、逆に主人を殺してしまいました。
愛妾と逃げて強盗を働くようになりましたが、自分の罪を悔いるようになります。
一転して仏道に帰依し旅に出て、鎖渡しという難所で犠牲になった死者を見ました。
そして、二百間以上ある大絶壁を、自分一人の力でくり抜こうと決意したのです。
初め市九郎を笑っていた村人たちは、一年二年とたつうちに・・・
そして19年たったとき、市九郎の前に突然現れたのは・・・
「敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しか
も、自分が一度名乗りかけると、唯々として、命を捨てようとしているのである。か
かる半死の老僧の命を取ることが、何の復讐であるか」(P110)
敵とは何か? 復讐とは何か? 人は過去の過ちを正すことができるのか?
さまざまなことを考えさせられます。道徳の教科書にも出ているそうです。
「藤十郎の恋」も、有名な物語です。
坂田藤十郎が近松門左衛門から与えられた狂言は、命がけの恋を描いたものでした。
しかし、そのような恋をしたことのない藤十郎は、どう演じていいか分かりません。
そこで彼が思い立ったことは・・・その結果、ある悲劇が・・・
「忠直卿行状記」もまた、とても考えさせられる物語です。
槍術の大仕合で家来を次々と破った忠直卿は、偶然意外な言葉を立ち聞きしました。
忠直が真槍で勝負したところ、罪を自覚していた家来たちはどうしたか?
傷を負って屋敷に運ばれた彼らは、そのあとどうしたか?
「忠直卿は、つくづく考えた。自分と彼等との間には、虚偽の膜が、かかっている。
その膜を、その偽(いつわり)の膜を彼等は必死になって支えているのだ。その偽は、
浮ついた偽でなく、必死の懸命の偽である。」(P56)
こういう文章を書かせたら、菊池寛は抜群にうまいです。
非常に練られた文章が、物語の完成度をぐっと上げています。
「形」はわずか4ページ足らずの小品ですが、鮮烈な印象を残します。
槍の名人中村は、自身の猩々緋の羽織を、若い武士の初陣に貸してやります。
「あの羽織や兜は、申さば中村新兵衛の形じゃわ。」
若武者の初陣は成功しますが、しかし、猩々緋を貸した中村は・・・
さて、「恩讐の彼方に」が書かれたのが、大正8年でした。
その翌年の大正9年には「真珠夫人」が書かれました。ギャップが大きすぎる。
さいごに。(電卓じゃないって)
私がついこのあいだまで使っていたケータイは、AUのsportioというガラケーです。
「お洒落な電卓ですね」とよく言われました。・・・電卓じゃないし。ガラケーだし。
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