SSブログ

世界文学の流れをざっくりとつかむ19 [世界文学の流れをざっくりとつかむ]

≪第5章≫ 中世東洋

2 日本文学のはじまり

 日本は古来より中国の文化を取り入れ、発展してきました。百済を通じて漢字が伝わると、日本人は漢字でやまとことばを記す技術を身につけました。645年の乙巳の変、672年の壬申の乱を経て、天武天皇が即位すると、天皇専制の体制が整いました。710年には平城京に遷都しました。このような国家創造の気運のもと、民族精神の支柱となる叙事詩が求められました。

 712年に成立した「古事記」は、現存する日本最古の歴史書です。そこには、天地開闢以来の神々の世界の出来事や上代の天皇の事績が生き生きと描かれ、叙事詩的な特徴を持っています。それらの内容を伝えた稗田阿礼は、語り部のような存在だったとされています。しかし私はむしろ、稗田阿礼はギリシアのホメロスのような吟遊詩人であって、まだ文字のなかった時代の出来事を、独自の韻律で暗唱していたと考えています。そしてのちの時代に、稗田阿礼が口誦した叙事詩を、太安万侶が文字化したというのが真実に近いように思います。

 いすれにしても「古事記」には、国内の民族意識を統一しようという意図が見られます。「古事記」は国民的叙事詩としての役割を果たしたと考えられます。そういう点で、720年に成立した「日本書紀」とは、性質が大きく異なります。「日本書紀」は、主に対外的に国威を示すことを目的として書かれ、史実を淡々と記録しています。一方「古事記」は、個々の物語や歌謡などを生き生きと描写しているため、文学的な価値が高く評価されています。

 7世紀の終わりから8世紀の中頃までは、遣唐使によって唐の文化が積極的に取り入れられ、天平文化が繁栄しました。このころ、李白や杜甫などの唐詩も日本に紹介されました。そういった影響のもと、「万葉集」の編纂が意図されたと考えられます。よって「万葉集」には、日本独自の歌を残そうという、「古事記」同様の民族意識が感じられます。

 771年以降に「万葉集」は成立しました。そこで使われた文字は、漢字を独自の方法で利用した万葉仮名です。編纂は何年かにわたり、携わった人々は多いのですが、最終的には大伴家持らがまとめたようです。和歌約4500首を、全20巻に収録しています。歌の制作時期は、実に400年にわたり、文字のない時代に集団で口承されていたものも含んでいます。当時の日本における詩歌の集大成となっています。

 一般に、作者は四期に分けて考えられています。第一期は、670年頃までの国家の激動期です。代表的歌人は、額田王、天智天皇、天武天皇など、歴史的人物が中心で、歌は素朴で力強いものが多いです。第二期は、710年頃までの国家の確立期です。代表的歌人は、柿本人麻呂、高市黒人などで、この時期に宮廷歌人が活躍を始めました。第三期は、730年頃までの貴族文化の繁栄期です。代表的歌人は、山部赤人、山上憶良、大伴旅人などで、歌は素朴さを失って内省的なものが多くなりました。第四期は、760年頃までの天平文化の爛熟期で、万葉歌は衰退に向かいました。代表的歌人は、大伴家持などで、歌は繊細で感傷的なものが目立つようになりました。また、技法もしだいに複雑になり、この時期の和歌が「古今和歌集」への橋渡しとなりました。

 さて、ここで取りあげた「古事記」や「万葉集」は、日本文学史においては、古代または上代に分類されています。しかし、世界文学史的に見た場合、中国の影響を受けて日本文学が開花する過程は、崩壊したローマ帝国の遺産をもとに周辺諸国の叙事詩が誕生する過程に対比できるため、中世に分類しました。

 次回は、日本文学の最盛期について述べたいと思います。

 さいごに。(のど自慢)

 娘が、「のど自慢」の鐘の音を知らないと言うので、日曜日に番組を見せました。
 我々の世代で、あの鐘の音を知らない人はいない。いわば一般教養でしたが・・・

 私も久々に見ました。下手な人が情熱的に歌う歌の方が、見ていて楽しいですね。
 合格者が出たとき、「これがのど自慢の鐘か」と、娘は妙に納得していました。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ: