SSブログ

みんな山が大好きだった [日本の現代文学]

 「みんな山が大好きだった」 山際淳司 (中公文庫)


 死の領域に踏み込んで散っていった、尖鋭的アルピニストたちの姿を描いています。
 1984年の「山男たちの死に方」を改題し、1995年に出ました。山の本の名著です。


みんな山が大好きだった

みんな山が大好きだった

  • 作者: 山際 淳司
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2003/05/23
  • メディア: 文庫



 日本が誇る加藤保男は、エベレストに世界で初めて、春・秋・冬と三度登りました。
 しかしその最期、1982年に冬季の登頂を果たしたあと、下山中に消息を絶ちました。

 命がけのアタックが失敗すると、人は「功名心にはやったのだ」と言いたがります。
 しかし山際は言います。危険の向こう側に「一瞬の生のきらめきがあるのでは」と。

 「その一瞬の、生のきらめき。それを心の深いところで受けとめてしまった人間は、
 いつまでもそれを追い求める。危険を顧みず、果敢にアタックする。」(P49)

 街には、日常的な生があふれています。一方、山では死と隣り合わせになります。
 山では、生はむしろ非日常的なものであって、きらきらときらめいているのです。

 さて、第1章「一瞬の生のきらめき」では、加藤保男の生涯を描いています。
 しかし、私の中で最も印象に残ったのは、引き合いに出されたメスナーの言葉です。

 「私は、頂上まであと六〇〇メートルの地点で引き返すことを決断した。目標は手を
 伸ばせば届きそうなところにあった。だが、われわれはそれに背を向けた。それが敗
 北だということは理解していた。同時に、生きて再び帰れることもわかっていたのだ」
 (P39)

 これはメスナーが、加藤と同じ1982年の冬、チョーオユーを諦めたときの言葉です。
 イタリアの誇る超人メスナーは、加藤保男に言及して、次のようにも言っています。

 「私は危険を熟知している。加藤君もそうだったはずだ。だが、私は断念し、加藤君
 は危険を全面的に受け入れた。彼は死んだ。だが、私はまだ生きている」(P40)

 危険を受け入れ、果敢にアタックする者と、危険を回避し、アタックを断念する者。
 どちらがより勇敢なのか分かりませんが、私は加藤に生きて帰ってほしかったです。
 (多くの登山家が山で死んだ中で、メスナーだけは今もちゃんと生きています!)

 その9年前の1973年、加藤はエベレスト初登頂を果たしたあと、ビバーグしました。
 そして、手足の指を失いながら生還しますが、彼を救出したのが長谷川恒男でした。

 その数日前に加藤は、サポート隊の長谷川に言われました。「気をつけろよ」と。
 長谷川は、加藤の右手の生命線上に、遠征でできた傷があるのを見つけたのです。

 長谷川は、登頂の成功よりも、生きて帰ることの大切さを、伝えたのではないか? 
 「生き抜くことが冒険だよ」。これは、長谷川が父から教えられた言葉です。

 その後、長谷川は世界で最初に、アルプス三大北壁を冬季に単独で登攀しました。
 そして、本書が書かれた1984年当時、彼はまだ現役で活動し続けていたのです。

 長谷川が、ウルタルⅡ峰で雪崩に巻き込まれ亡くなったのは、1991年のことです。
 43歳でした。生き抜くことは難しいことです。まさに、生き抜くことは冒険です。

 この本では随所で、多くの登山家のさまざまな名言に触れることができます。
 中でも私がもっとも感銘を受けたのが、長谷川恒男の次のような言葉です。

 「私のやっている行為は全宇宙から見たらまったくゴミでしかない。しかし、私にと
 ってみると、大きな大きな命の証しなのだ。人間の一生は短い。その中で、たったひ
 とつの生命が、自分自身の心の中で永久に生きていられる表現方法が、私の場合は登
 山だと思う。」(P188)

 登山家が命がけで山に登るのは、「永遠」を求めているからなのかもしれません。
 しかし、だからといって、死なないでほしいです。生還することが一番かっこいい!

 さいごに。(常連さんの仲間入り)

 連休中も、その半分ほどは、職場で仕事三昧でした。
 私もとうとうこの4月から、休日出勤の常連さんになってしまいました。

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ: