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ティファニーで朝食を [20世紀アメリカ文学]

「ティファニーで朝食を」 トルーマン・カポーティ作 村上春樹訳 (新潮文庫)

 ヘップバーン主演の映画にもなった、カポーティの名作です。
 名刺には「旅行中」と記し、まるで蝶のように気ままに、
 ひらひらと男たちの回りを飛び交う、可憐で天真爛漫なホリー。
 ちょっと変わったこの娘のことが、読んでいるうちにだんだん気になり始め、
 そしていつの間にか、その魅力のとりことなって行きます。

 ホリーの魅力は、自分の野生的本能に従って、生きているところです。
 まったく、好きなように生きています。
 おそらく、その生き方こそが、ホリーのホリーたるゆえんです。
 だからホリーは、無理をしてでも、自分の好きなように、生きようとしているようにみえます。
 そこが、とてもけなげに思えてくるのです。

 こんなことを、ホリーが言っています。
 「何にでも慣れたりはしない。そんなのって、死んだも同然じゃない」(P32)
 また、こんなことも言っています。
 「野生の生き物に深い愛情を抱いたりしちゃいけない。
 心を注げば注ぐほど、相手は回復していくの。
 そしてすっかり元気になって、森の中に逃げ込んでしまう。」(P115)
 なかなかうまい言葉で、自分の本質を表現していると思います。

 さらに、タイトルにもなった、こんな有名なセリフもあります。
 「いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、
 この自分のままでいたいの。」
 ホリーは何も考えていないようですが、でも、バカじゃありませんね。
 この言葉には、知性さえ垣間見えています。
 
 エンディング近くで、ホリーは逮捕され、保釈されるとすぐリオへ行ってしまいます。
 「僕」はその逃亡を手助けします。
 そして、最後の最後になって、我々は初めて、ホリーの弱音を聞くのです。
 「私は怖くてしかたがないのよ。ついにこんなことになってしまった。
 (中略)何かを捨てちまってから、それが自分にとって
 なくてはならないものだったとわかるんだ。」(P168)
 (この直前に、飼い猫を放して、後悔しています)

 二人は別れて、二度と会うことはありません。
 とても切ない余韻が残ります。

 さて、「ティファニーで朝食を」は、新潮文庫で読めます。
 2008年に、村上春樹の翻訳で、改版が出たばかりです。

 旧版の瀧口直太郎の翻訳は、数々の誤訳があることで、ちょっと知られていました。
 村上訳では、誤訳が訂正されたのはもちろん、
 とても分かりやすく、読みやすく、魅力的に変わりました。
 なんと言っても、ホリーの言葉の魅力を、充分引き出しています。
 そして、ホリー・ゴライトリーも、生き生きと生まれ変わりました。

 ついでに申しますと、旧版では、ホリーの言葉の魅力が伝わってこなかったので、
 ただの、気まぐれで、いかれた不良娘としか、思えませんでした。
 そのくせ、巻末の解説では、同名の映画について、
 「あまり感心できない通俗化が行われた」と批判してありました。
 でもむしろ私は、「映画のヘップバーンを見て救われたい」と、思ってしまった。

 ところで、逆説的ですが、もし本屋さんで、新版と旧版の二冊を見つけたら、
 迷わず旧版を買うことを、お薦めします。
 旧版はおそらく、どんどん回収されて、無くなっていくと思いますが、
 しかし捨てがたい魅力もあるからです。

 それは、表紙にヘップバーンが描かれていること。
 村上版では、イメージが固定されるのを恐れて、あえて彼女を描かなかったといいますが、
 やはり、ヘップバーンは良いですよ。
 この表紙、秀逸です。村上さん、気にしすぎです。
 
 そして、龍口氏の解説がまたいいのです。
 ニューヨーク五番街のティファニーに行ったさい、
 ホリーの言葉を比喩だと承知した上で、恥をしのんで、
 「ここに食堂はありますか」と聞いたところ、
 「とんでもない」と言われたというのです。なかなかできないことですよね。

 だから、私の本棚には、龍口版と村上版が、仲良く並んで置いてあります。


ティファニーで朝食を (新潮文庫)








ティファニーで朝食を (新潮文庫)


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