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世界文学の流れをざっくりとつかむ8(第2章ー2) [世界文学の流れをざっくりとつかむ]

 ≪第2章≫ ギリシアとローマ

2 ギリシアの演劇(三大悲劇作家など)

 前750年頃にホメロスが活躍していた頃、彼から直接叙事詩を聞くことができた人は、それほど多くなかったはずです。しかし、それから300年ののち、前400年代の半ばには、1万人以上入る劇場で、多くの人々が演劇を楽しめるようになっていました。

 この300年ほどの間に、世の中はがらりと変わっていたのです。植民活動の結果、商業が活発になり、ポリスは豊かになりました。特に、前449年に大帝国ペルシアの侵攻を妨げると、アテナイはデロス同盟によってギリシアの名主となり、最盛期を迎えました。奴隷制のもとアテナイは繁栄し、人々には余暇が生まれ、劇場で劇を楽しめるようになったのです。

 演劇はそもそも祭典の一部として発展し、やがて大衆を魅了するようになりました。特にアテナイでは、大衆の期待に応えるように、三大悲劇作家が登場し活躍しました。三大悲劇作家とは、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスを指します。

 一人目のアイスキュロスは、ペルシア戦争で、マラトンの戦いやサラミスの海戦に従軍した経歴を持ちます。戦いから生還した後に劇作を行い、劇大会で13回優勝したと伝えられます。彼は、ギリシア悲劇の確立者です。代表作は、前458年の「オレスティア」三部作です。トロイア戦争から凱旋したミュケナイ王アガメムノンが、妻クリュタイメストラによって謀殺されるところから始まる、アトレウス一族の復讐劇です。オレステスは、クリュタイメストラの息子で、復讐劇の中心にいます。

 二人目のソポクレスは、国家の要職を歴任しました。劇大会では24回優勝し、ギリシア悲劇の完成者です。ソポクレスの代表作は、前420年の「オイディプス王」です。怪物スフィンクスの謎を解き、テーベの王となったオイディプスが、知られざる真実と恐ろしい運命を描いています。ギリシア悲劇の傑作中の傑作です。

 三人目のエウリピデスは、富裕な市民だった市民にしては珍しく、軍務にも要職にも就かなかった人です。非社交的な性格だったため、「舞台の哲人」と言われました。エウリピデスの代表作は、前431年の「トロイアの女」です。トロイアの落城や老王プリアモスの死や老王妃ヘカベの絶望など、トロイア戦争を相手のトロイア側から描いた悲劇です。

 このように、ギリシア悲劇は神話の世界を描いています。しかし、ホメロスのように女神が語るままに伝えているわけではありません。彼らは神話群や伝説群を様々に取捨選択し、組み合わせアレンジしています。つまり、彼らなりの味つけがされていて、そこに個性が出ています。ここに、「作家」という概念が生まれたのかもしれません。実際、三大悲劇作家については、ホメロスとは対称的に、かなりのことが分かっています。

 たとえば、アイスキュロスについては、彼の頭は石頭であったということまで伝わっています。カメを岩に落として食べるヒゲワシに、頭を岩だと間違えられてカメを落とされたために死んだのだという怪しげな伝説まで伝わっています。このようなところから、「作家」という個人が注目されるようになったことが分かります。

 三大悲劇作家のほかに、喜劇作家として有名なアリストファネスを忘れてはいけません。アリストファネスの代表作は、前411年の「女の平和」です。男たちによって長引く戦争にうんざりした女たちが、女の武器を使って戦争をやめさせようとする喜劇です。笑いの中に、ペロポネソス戦争に対する批判が描かれています。

 さて、前431年~前404年には、ペロポネソス戦争がありました。これは、アテナイ対スパルタの戦いです。アテナイは、ポリス同士の争いによって疲弊し、衰退していきました。アテナイの興隆とともに発展したギリシア悲喜劇は、アテナイの衰退とともに消滅へと向かっていったのです。

 次回は、ギリシアの散文について述べていきたいと思います。

 さいごに。(学習塾始まる)

 入塾テストで、月は南から北へ動くと答えたうちの娘も、なんとか合格しました。
 3月からスタートした塾は、宿題がたくさん出るけど、結構楽しいと言います。

 先週は、2時間ほどかけて、AからZまでを50回書いていました!
 「手伝ってあげるよ」という言葉を吞みこみ、見守りました。私も子離れしなくては。

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