ひばり [20世紀フランス文学]
「ひばり」 ジャン・アヌイ作 岩切正一郎訳 (ハヤカワ演劇文庫)
裁判にかけられたジャンヌ・ダルクが、自分の生涯を再演するという戯曲です。
1952年に刊行された、アヌイの代表作です。劇団四季でも時々上演されます。
イギリス軍にとらえられたジャンヌは、異端者として宗教裁判にかけられました。
法廷において、ジャンヌは神の声を聞いた場面から、自分の一生を演じ始めました。
大天使ミカエルの声、異端審問の罠、家を出て立ち上がる決意、守備隊長への説得、
太子のシャルルへの訪問と説得、異端審問、聖絶書への署名、処刑、そして・・・
15世紀の百年戦争の末期、劣勢のフランス軍に突如現れ、瞬くまに逆転させた少女。
ジャンヌ・ダルクという存在はまさに奇跡で、いつまでも我々を魅了し続けています。
舞台は、ジャンヌがイギリス軍によって、宗教裁判にかけられる場面から始まります。
そこには群衆もいて、おかしなことに、ジャンヌの演じる一生を皆で見ているのです。
群衆にはなぜか、守備隊長やシャルル七世も混じっていて、自分の役を演じています。
さらにおかしなことに、守備隊長は出番を間違えそうになります。ドリフのようです。
また、シャルルはシャルルで、けん玉をしたり、トランプをしたり・・・
ダメだ、ダメだ! どうしても「志村のバカ殿」とイメージが重なってしまう!
このような演出は、私には、聖女ジャンヌ・ダルクを茶化しているように思えました。
また、最後の強引などんでん返しも、私には少しふざけているように感じられました。
アヌイのファンには申し訳ないのですが、私には「ドリフの演出」と同じでした。
観劇が苦手な自分は、とにかくもっと普通に、分かりやす演じてほしかったです。
「自分が自分であるため自らの運命を選び取り、凜々しく気高く生き抜いた人間の姿
を描く」という紹介文には、違和感を覚えました。
ところで、タイトルの「ひばり」とは、もちろんジャンヌ・ダルクのことです。
彼女がイギリス軍に引き渡されたとき、次のような説明文が続いていました。
「小さなひばりは捕まった。コンビエーニュの罠は閉じられた。輝かしいページは演
じられた。シャルルとその宮廷は、一顧だにせず、小さなマスコットを捨てることに
なる。このマスコットは、もう、幸福を運んでくれそうにない。」(P120)
人々の思惑によって、利用され尽くされたジャンヌの人生! かよわいマスコット!
その痛々しさを強調するため、わざと軽薄かつコミカルに描いていたのでしょうか。
そう考えて読み直すと、終盤、実に象徴的な言葉がありました。
司祭コーションが、ジャンヌの処刑を見に来る市民たちを評した言葉です。
「彼ら(市民たち)にはなにも起こりはしない。この世の偉人たちの、勝利も死も、
彼らはスペクタクルとして楽しむ。赦してやらなくてはな。ジャンヌ。あの者たちは
代償を払っている。この小さな気晴らしを持つために、一生、民衆であるという、安
くない代償を。」(P162)
我々読者もまた、そういう市民であって、このスペクタクルを楽しんでいるのです。
つまり、この言葉は、我々自身に対する批判となっているようです。
さて、ジャンヌ・ダルクを読むなら、シラーの「オルレアンの少女」がオススメ。
ロマンチックな味付けがされているので、読んでいてとても楽しいです。
「オルレアンの少女」→ https://ike-pyon.blog.ss-blog.jp/2020-04-10
さいごに。(リモート授業)
先日、娘が少し早く学校から帰ってきました。コロナの濃厚接触となったとのこと。
授業についていけなくなるんじゃないか、と思ったのですが・・・
なんと、家でタブレットを開けて、リモートで授業に参加していたのだそうです。
本当に、良い時代になりました。
裁判にかけられたジャンヌ・ダルクが、自分の生涯を再演するという戯曲です。
1952年に刊行された、アヌイの代表作です。劇団四季でも時々上演されます。
ジャン・アヌイ (1) ひばり (ハヤカワ演劇文庫 (11))
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/09/21
- メディア: 文庫
イギリス軍にとらえられたジャンヌは、異端者として宗教裁判にかけられました。
法廷において、ジャンヌは神の声を聞いた場面から、自分の一生を演じ始めました。
大天使ミカエルの声、異端審問の罠、家を出て立ち上がる決意、守備隊長への説得、
太子のシャルルへの訪問と説得、異端審問、聖絶書への署名、処刑、そして・・・
15世紀の百年戦争の末期、劣勢のフランス軍に突如現れ、瞬くまに逆転させた少女。
ジャンヌ・ダルクという存在はまさに奇跡で、いつまでも我々を魅了し続けています。
舞台は、ジャンヌがイギリス軍によって、宗教裁判にかけられる場面から始まります。
そこには群衆もいて、おかしなことに、ジャンヌの演じる一生を皆で見ているのです。
群衆にはなぜか、守備隊長やシャルル七世も混じっていて、自分の役を演じています。
さらにおかしなことに、守備隊長は出番を間違えそうになります。ドリフのようです。
また、シャルルはシャルルで、けん玉をしたり、トランプをしたり・・・
ダメだ、ダメだ! どうしても「志村のバカ殿」とイメージが重なってしまう!
このような演出は、私には、聖女ジャンヌ・ダルクを茶化しているように思えました。
また、最後の強引などんでん返しも、私には少しふざけているように感じられました。
アヌイのファンには申し訳ないのですが、私には「ドリフの演出」と同じでした。
観劇が苦手な自分は、とにかくもっと普通に、分かりやす演じてほしかったです。
「自分が自分であるため自らの運命を選び取り、凜々しく気高く生き抜いた人間の姿
を描く」という紹介文には、違和感を覚えました。
ところで、タイトルの「ひばり」とは、もちろんジャンヌ・ダルクのことです。
彼女がイギリス軍に引き渡されたとき、次のような説明文が続いていました。
「小さなひばりは捕まった。コンビエーニュの罠は閉じられた。輝かしいページは演
じられた。シャルルとその宮廷は、一顧だにせず、小さなマスコットを捨てることに
なる。このマスコットは、もう、幸福を運んでくれそうにない。」(P120)
人々の思惑によって、利用され尽くされたジャンヌの人生! かよわいマスコット!
その痛々しさを強調するため、わざと軽薄かつコミカルに描いていたのでしょうか。
そう考えて読み直すと、終盤、実に象徴的な言葉がありました。
司祭コーションが、ジャンヌの処刑を見に来る市民たちを評した言葉です。
「彼ら(市民たち)にはなにも起こりはしない。この世の偉人たちの、勝利も死も、
彼らはスペクタクルとして楽しむ。赦してやらなくてはな。ジャンヌ。あの者たちは
代償を払っている。この小さな気晴らしを持つために、一生、民衆であるという、安
くない代償を。」(P162)
我々読者もまた、そういう市民であって、このスペクタクルを楽しんでいるのです。
つまり、この言葉は、我々自身に対する批判となっているようです。
さて、ジャンヌ・ダルクを読むなら、シラーの「オルレアンの少女」がオススメ。
ロマンチックな味付けがされているので、読んでいてとても楽しいです。
「オルレアンの少女」→ https://ike-pyon.blog.ss-blog.jp/2020-04-10
さいごに。(リモート授業)
先日、娘が少し早く学校から帰ってきました。コロナの濃厚接触となったとのこと。
授業についていけなくなるんじゃないか、と思ったのですが・・・
なんと、家でタブレットを開けて、リモートで授業に参加していたのだそうです。
本当に、良い時代になりました。
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