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世界文学の流れをざっくりとつかむ13(第3章ー2) [世界文学の流れをざっくりとつかむ]

≪第3章≫ 中国とインド

2 古代中国の文学(儒教と文学)

 中国の歴史も古く、紀元前7000年頃には黄河文明が始まっていました。殷の時代には、占いのために甲骨に甲骨文字が刻まれ、そこから漢字が生まれました。漢字は、紀元前1300年頃に文字として完成したようです。やがて、宗教儀式の詩句や日常の労働歌が「詩」としてまとめられ、これが中国の韻文学の出発点となりました。また、伝説死上の聖天子や歴代の王の事績が「書」としてまとめられ、これが中国の散文学の出発点となりました。

 紀元前500年頃、ギリシアでソクラテスが活躍していたのとほぼ同じ時期に、中国では孔子が教えを説いていました。孔子の死後、その言行録を弟子たちが「論語」としてまとめました。ここに、儒教という中国人の精神的支柱が確立しました。このとき彼らは、「詩」を「詩経」として、「書」を「書経」として、儒教における重要な経典の中に取り込んだのです。こうして、「詩」や「書」などの文学は、大切な学問として位置づけられました。文学が実学として重視されるという中国独特の特徴は、このときを起源としています。また、この時期には「老子」「荘子」「韓非子」なども相次いで書かれ、中国の民族精神に大きな影響を与え続けました。

 前202年に漢が成立し、7代目の武帝の頃にその国力は最盛期を迎えました。武帝は、儒教を国家公認の学問としました。「高い徳の者が天下を治める」という思想が、中央集権を目指す武帝にとって都合が良かったからです。儒教が国教になると、特に五経の筆頭であった「詩経」は、官吏にとって大事な教養となっただけでなく、官吏は自ら詩を作ることも求められるようになりました。教養人にとって詩は、たいへん身近なものとなっていきました。一方「書経」から続く伝統は、司馬遷に正史の第一である「史記」を書かせたのです。

 武帝の時代、前91年に司馬遷は「史記」130巻を完成させました。「史記」は中国における最初の歴史書で、こののち中国の史書の模範となりました。それは、太古から武帝までの通史で、人物を中心とした本紀と列伝から成る紀伝体で書かれていました。この書物の特徴は、「天道是か非か」(この世に行われるべき正しい道はあるのかないのか)という思想で貫かれている点です。つまり、歴史を書くにあたって、著者の明確な観点が設定されているのです。司馬遷は、将軍李陵を弁護して宮刑に処せられましたが、そのようなことを行った国家に対して疑問を持っていました。「史記」を完成させるために恥を忍んで生き続け、「天道是か非か」を問い続けた司馬遷の批判精神が、「史記」を他の史書にない特別なものとしています。

 「史記」はのちに続く正史の大きな流れを作りました。後漢の班固と班昭は後82年に「漢書」100巻を著しました。前漢の歴史書で、記録重視の内容でしたが、「史記」と並んで高く評価されています。晋の陳寿は280年以降に「三国志」を著しました。後漢末から三国時代の歴史書で、魏呉蜀の争いを描く正史です。こののちにも史書は、王朝が変わるたびに書き継がれ、清の時代には二十四史が定められました。

 実学が重視される中国では、虚構の物語は蔑視されていました。しかし、東晋(317~420)に入る頃、ようやく小説が現れました。小説とは、巷で語られる小話のことを言い、上流階級からは蔑まれていましたが、民衆からの人気を博していました。この時期「捜神記(そうじんき)」が干宝(かんぽう)によって書かれました。志怪小説といって、奇怪な物語を集めたもので、仏教の影響が見られます。志怪小説はのちに伝奇小説へと引き継がれて洗練されていき、唐代の「遊仙窟」へとつながっていきます。

 さて、次回からは中世文学について書いていきたいと思います。

 さいごに。(「マツコの知らない世界」で「ムー」登場)

 前回の「マツコの知らない世界」で、オカルト雑誌「ムー」が紹介されました。
 ゲストは、「ムーを読み続けて人生を学んだ」という、漫画家の石原誠です。

 これがとても面白かった。「ムー」を取り上げてくれたマツコさんに感謝します。
 ところで、N国党首の「マツコをぶっ壊す」発言は笑止千万。(小学生か?)

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