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世界文学の流れをざっくりとつかむ34 [世界文学の流れをざっくりとつかむ]

≪第七章≫ 近代小説の誕生

5 フランス・ロマン主義

 1789年のフランス革命によって、フランスの社会も芸術も荒廃しました。王政から共和政へ、さらに帝政へと移り、ナポレオンの支配下において文学は制約され、停滞しました。そのような社会情勢において「芸術の自由」を求める声が高まり、スタール夫人が1800年に「文学論」を刊行して、文学の自由を主張しました。そのため、ナポレオンに激怒され、パリを追放されました。その後ドイツ亡命時代にロマン主義に接し、ナポレオン退位後いちはやくフランスにロマン主義を紹介したことから、スタール夫人はフランス・ロマン主義の先駆者とされています。

 フランス・ロマン主義の先駆者に、もうひとりシャトーブリアンがいます。1801年に「アタラ」を、翌1802年には「ルネ」を刊行しました。「アタラ」は、アメリカ・インディアンの2人を主人公に、愛と宗教の葛藤を描いています。「ルネ」はその続編で、憂鬱で誇り高い青年ルネの人生を描いています。この二作におけるアンニュイな気分は、のちのロマン主義の多くの青年たちの共感を得ました。

 ヴィクトル・ユゴーは韻文劇「クロムウェル」を書いたとき、それに長文の序を付けて、古典主義的な規則に縛られない「芸術における自由」を掲げ、若きロマン主義者たちを熱狂させました。彼のもとには多くの文学青年たちが集まり、ユゴーはロマン派の総大将と目されるようになりました。当時は古典主義的な演劇が文学の主流だったので、彼らは演劇において勝利を得ようとしました。その結果、ユゴーによる革新的な演劇「エルナニ」上演の際、古典主義的な演劇を守ろうとする者たちと激しく論争しました。最終的にロマン派が勝利を収めたため、1830年のこの日からロマン主義の時代が始まったとされます。ユゴーは1831年に「ノートルダム・ド・パリ」を、1856年には「静観詩集」を出しました。しかし、彼の最高傑作は、1862年に出た人道主義的な大長編「レ・ミゼラブル」です。その内容はジャン・ヴァルジャンの物語として、日本でもよく知られています。

 アレクサンドル・デュマは、ユゴーのサロンの常連でした。たいへんな多作家で、1940年代に「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」や「王妃マルゴ」などを次々と出しました。その息子アレクサンドル・デュマ・フィスは、1848年に出した娼婦の純情を描いた「椿姫」が有名です。親子で同じ時期に活躍しました。

 アルフレッド・ド・ミュッセもまたユゴーのサロンの常連で、「戯れに恋はすまじ」や歴史劇「ロレンザッチョ」などの戯曲を書きましたが、当時は冷たくあしらわれました。彼はまたジョルジュ・サンドとの恋愛で有名です。1836年に出した唯一の長編小説「世紀児の告白」にはサンドとの愛が描かれており、当時の青年たちの憂鬱や倦怠がよく表われています。一方のジョルジュ・サンドもまた、ミュッセのほかショパンとの愛でも有名です。1837年に出した「モープラ」のように、女性を踏みにじる社会を批判的に描いたものや、1846年の「魔の沼」や1849年の「愛の妖精」のように、自然の美しさを描いた田園小説が有名です。

 テオフィル・ゴーティエもまたユゴーの仲間で、「エルナニ」事件で活躍した作家です。ホフマンの影響を受け、幻想的な作品を出しました。 1834年の「モーパン嬢」では、男装の麗人を描きましたが、特にその序文がロマン主義に言及しているために有名です。

 ほかに、写実主義の開祖と目されるバルザックやスタンダールなどもユゴーの仲間であり、その最初の頃は明らかにロマン主義の影響下にありました。文学史においては、フランス・ロマン主義が1850年代を境に、しだいに写実主義文学に主流の座を譲る、というような説明がされています。しかし私には、写実主義もその後の自然主義も全て、芸術の自由を掲げたロマン主義文学の一派であるように思えます。

 さいごに。(県選抜に出られるって?)

 うちの娘が、なんと走高跳で、県の選抜大会に出られることになりました。
 絶好調だった4月の記録会で、1m40を1回でクリアしていたからです。

 それ以来スランプから抜け切れず、先日の大会では、1m40を3回失敗しています。
 でも、選抜大会は出られるだけで嬉しいです。大会を楽しんでもらいたいです。

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