失われた時を求めて5 [20世紀フランス文学]
「失われた時を求めて3」 マルセル・プルースト作 吉川一義訳 (岩波文庫)
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第二篇「花咲く乙女たちのかげに」は、第一次世界大戦後の1919年に出ました。
その年のゴンクール賞を獲得して、プルーストの名を一躍有名にした巻です。
「私」がシャンゼリゼでジルベルトと遊んでいた頃、ノルポワ氏が夕食に来ました。
特使としても働いてきたノルポワ侯爵が、なぜか「私」の父に友情を示したのです。
彼は、「私」を外交官にしたがっていた父に、作家も良い職業だと請け合いました。
ノルポワ氏のおかげで「私」は外交官にならず、作家の道に進むことができました。
一方で彼は、「私」が以前書いた散文詩を読んで、ダメな点をあげつらいました。
のみならず、「私」が心服している作家ベルゴットを、容赦なくこきおろしました。
(ところが、スワン家での晩餐会を通して、「私」とベルゴットと交流が始まると、
今度はベルゴットがノルポワ氏を「耄碌じじい」と容赦なくこきおろすのです。)
後日「私」はジルベルトから、スワン夫妻が自分を良く思っていないと聞きました。
しかし、数日間病気で寝込んだとき、ジルベルトからお茶の誘いを受けたのでした。
なぜ一転して、「私」はスワン夫妻から歓迎されるようになったのか?
どうやら、「私」がジルベルトに対して大きな影響力を持っているからのようで・・・
というように、第一部「スワン夫人をめぐって」は、「土地の名ー名」の続きです。
14歳から15歳ぐらいの「私」とジルベルトとの、淡い恋が描かれています。
ここで印象的なのは、「私」がジルベルトから手紙を取ろうとしてふざける場面です。
「私」は両脚でジルベルトを締め付け、彼女はくすぐられたように笑っています。
そうした取っ組み合いで、「私」ははあはあと息切れが高まったと思う間もなく・・・
「力を出したときに数滴の汗がほとばしるように快楽をもらした。」(P156)
するとジルベルトは、「もう少し取っ組み合いを続けてもいいわよ」と言うのです。
「私」は気付かれたと悟ります。というように、少年時代の「性」が描かれています。
その直後、公衆トイレとアドルフ叔父の部屋の匂いが同じだと、不意に気づきます。
その公衆トイレのかび臭い匂いは、なぜか「私」に歓びをもたらしてくれたのです。
トイレの匂いに歓びを感じるのはなぜか? 叔父の部屋の匂いとどう関わるのか?
直前の「性」の挿話と関係があるのか? この謎はどこかで明かされるのでしょうか?
もうひとつ印象的な場面があります。時間に対する疑念が述べられている場面です。
その疑念は、父に「あれはもう子供ではない」と言われた時、急に湧きおこりました。
私の人生はすでに始まっていて、このあともこれまでとそう違わないのでは・・・
私は時間の外にいるのではなく、むしろ時間に縛られているのではないか・・・
その疑念には、平凡な男が田舎に住み着くという物語の結末に似た悲哀があります。
自分もまた平凡な人生を運命づけられているのではないか、という悲哀でしょうか。
さいごに。(名古屋の方には、笑って聞き流してほしいのだけど・・・)
前回紹介したように、静岡人のごく一部には「静岡は首都圏だ」と言う人がいます。
その人は、進学や就職で名古屋へ出る人のことを、「都落ち」と言っています。
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第二篇「花咲く乙女たちのかげに」は、第一次世界大戦後の1919年に出ました。
その年のゴンクール賞を獲得して、プルーストの名を一躍有名にした巻です。
失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/11/17
- メディア: 文庫
「私」がシャンゼリゼでジルベルトと遊んでいた頃、ノルポワ氏が夕食に来ました。
特使としても働いてきたノルポワ侯爵が、なぜか「私」の父に友情を示したのです。
彼は、「私」を外交官にしたがっていた父に、作家も良い職業だと請け合いました。
ノルポワ氏のおかげで「私」は外交官にならず、作家の道に進むことができました。
一方で彼は、「私」が以前書いた散文詩を読んで、ダメな点をあげつらいました。
のみならず、「私」が心服している作家ベルゴットを、容赦なくこきおろしました。
(ところが、スワン家での晩餐会を通して、「私」とベルゴットと交流が始まると、
今度はベルゴットがノルポワ氏を「耄碌じじい」と容赦なくこきおろすのです。)
後日「私」はジルベルトから、スワン夫妻が自分を良く思っていないと聞きました。
しかし、数日間病気で寝込んだとき、ジルベルトからお茶の誘いを受けたのでした。
なぜ一転して、「私」はスワン夫妻から歓迎されるようになったのか?
どうやら、「私」がジルベルトに対して大きな影響力を持っているからのようで・・・
というように、第一部「スワン夫人をめぐって」は、「土地の名ー名」の続きです。
14歳から15歳ぐらいの「私」とジルベルトとの、淡い恋が描かれています。
ここで印象的なのは、「私」がジルベルトから手紙を取ろうとしてふざける場面です。
「私」は両脚でジルベルトを締め付け、彼女はくすぐられたように笑っています。
そうした取っ組み合いで、「私」ははあはあと息切れが高まったと思う間もなく・・・
「力を出したときに数滴の汗がほとばしるように快楽をもらした。」(P156)
するとジルベルトは、「もう少し取っ組み合いを続けてもいいわよ」と言うのです。
「私」は気付かれたと悟ります。というように、少年時代の「性」が描かれています。
その直後、公衆トイレとアドルフ叔父の部屋の匂いが同じだと、不意に気づきます。
その公衆トイレのかび臭い匂いは、なぜか「私」に歓びをもたらしてくれたのです。
トイレの匂いに歓びを感じるのはなぜか? 叔父の部屋の匂いとどう関わるのか?
直前の「性」の挿話と関係があるのか? この謎はどこかで明かされるのでしょうか?
もうひとつ印象的な場面があります。時間に対する疑念が述べられている場面です。
その疑念は、父に「あれはもう子供ではない」と言われた時、急に湧きおこりました。
私の人生はすでに始まっていて、このあともこれまでとそう違わないのでは・・・
私は時間の外にいるのではなく、むしろ時間に縛られているのではないか・・・
その疑念には、平凡な男が田舎に住み着くという物語の結末に似た悲哀があります。
自分もまた平凡な人生を運命づけられているのではないか、という悲哀でしょうか。
さいごに。(名古屋の方には、笑って聞き流してほしいのだけど・・・)
前回紹介したように、静岡人のごく一部には「静岡は首都圏だ」と言う人がいます。
その人は、進学や就職で名古屋へ出る人のことを、「都落ち」と言っています。
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