失われた時を求めて8 [20世紀フランス文学]
「失われた時を求めて4」 マルセル・プルースト作 吉川一義訳 (岩波文庫)
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第二篇「花咲く乙女たちのかげに」は、1919年のゴンクール賞を獲得しました。
今回は、その第二部「土地の名ー土地」の後半部分を紹介します。
バルベック滞在中の「私」は、浜辺で5~6人の少女たちの集団を見かけました。
彼女たちは皆美しく、服装も物腰もバルベックで見慣れた人たちと違っていました。
「シモネのお嬢さんのお友だち」と耳にした「私」は、そのことが忘れられません。
まだ会ったこともない「シモネ」という名前の少女に、思いを馳せるのでした。
また「私」は、サン=ルー侯爵に連れられて、リヴベルに夕食に出かけました。
リヴベルで「私」は、サン=ルーの知り合いの女たちに会い、心ひかれました。
こうして「私」の興味は、しだいに女たちへ向かっていきました。
と同時に、祖母との閉じられた世界から脱して、自分の世界を切り開いていきます。
あるとき「私」は、リヴベルの食堂で、エルスチールという画家と知り合いました。
彼はリヴベルにアトリエを持ち、地域では大画家として名を成していました。
「私」は彼のアトリエで、ブルジョワの少女アルベルチーヌ・シモネと出会い・・・
エルスチールが開いた集いで、「私」はようやくアルベルチーヌに紹介されて・・・
というように、第二部後半は、「私」とアルベルチーヌの恋の物語です。
しかし、どうしても印象に残るのは、謎多き画家のエルスチールです。
彼は、かつてヴェルデュラン夫人のサロンにいたという、滑稽な人ではないのか?
しかし、現在はすっかり雰囲気が変わり、「私」にまっとうなアドバイスをします。
どんな賢明な人でも、若いころには失敗をするが、それは後悔すべきことではない、
なぜなら賢人は、ありとあらゆる滑稽なことをしたあとでないとなれないから、と。
「駆け出しのころの自分のすがたなど、もはや見わけがつかなくなっていますが、い
ずれにせよ不愉快なものであるのは、私にはよくわかります。だからといってそれを
否認してはいけません。それはわれわれがほんとうに生きてきた証なのです。」(P478)
またエルスチールは、ある女の肖像画を持っていて、それを見せたがりませんでした。
それは、スワン夫人の若かりし頃の姿なのではないか? 彼はなぜそれを描いたのか?
エルスチールのおかげで、「私」はアルベルチーヌとその仲間たちと知り合いました。
そして、ジルベルトの時と同じように、「私」は彼女たちと頻繁に会って遊びました。
あるときアルベルチーヌが、「あなたのこと、好きよ」とメモに書いてよこして・・・
アルベルチーヌと手と手が触れ合ったとき、彼女の自分に対する愛を確信して・・・
そして、アルベルチーヌがグランド・ホテルに泊まる夜、「私」を部屋に招きました。
「私」が接吻をしようとすると・・・アルベルチーヌはどんな行動に出たのか?
「花咲く乙女たち」とせっかく知り合ったのに、肝心なことはまだ何も起こりません。
ある夏のリゾート地で、彼らは出会ってそして去って行った、というだけなのです。
アルベルチーヌも突如いなくなってしまいますし。この先、どうなるのでしょうか?
当初、ここまで読んだら終わりにしようと思っていましたが、これでは終われません。
さて、この先「失われた時を求めて」は、第三篇「ゲルマントのほう」に続きます。
第三篇に進むのが正攻法ですが、岩波文庫全14巻を読み通す気力はありません。
ところでここに、第一篇→第二篇→第六篇→第七篇という読み方を勧める人がいます。
「りきぞう」さんという方です。邪道ですが、私はこれもひとつの方法だと思います。
→ https://rikizoamaya.com/proust-timessummary/
さいごに。(見殺しにした者の罪は重い)
ジャニーズ問題については、さまざまに論じられています。
ジャニー氏がいなくなった今、テレビ局は急に正義の味方を演じ始めたみたいです。
しかし今のテレビ局は、自分たちの罪を覆い隠すために報道しているように見えます。
ジャニー氏が生きていたとき、見て見ぬふりをしてきたテレビ局の罪は非常に重い。
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第二篇「花咲く乙女たちのかげに」は、1919年のゴンクール賞を獲得しました。
今回は、その第二部「土地の名ー土地」の後半部分を紹介します。
失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/06/16
- メディア: 文庫
バルベック滞在中の「私」は、浜辺で5~6人の少女たちの集団を見かけました。
彼女たちは皆美しく、服装も物腰もバルベックで見慣れた人たちと違っていました。
「シモネのお嬢さんのお友だち」と耳にした「私」は、そのことが忘れられません。
まだ会ったこともない「シモネ」という名前の少女に、思いを馳せるのでした。
また「私」は、サン=ルー侯爵に連れられて、リヴベルに夕食に出かけました。
リヴベルで「私」は、サン=ルーの知り合いの女たちに会い、心ひかれました。
こうして「私」の興味は、しだいに女たちへ向かっていきました。
と同時に、祖母との閉じられた世界から脱して、自分の世界を切り開いていきます。
あるとき「私」は、リヴベルの食堂で、エルスチールという画家と知り合いました。
彼はリヴベルにアトリエを持ち、地域では大画家として名を成していました。
「私」は彼のアトリエで、ブルジョワの少女アルベルチーヌ・シモネと出会い・・・
エルスチールが開いた集いで、「私」はようやくアルベルチーヌに紹介されて・・・
というように、第二部後半は、「私」とアルベルチーヌの恋の物語です。
しかし、どうしても印象に残るのは、謎多き画家のエルスチールです。
彼は、かつてヴェルデュラン夫人のサロンにいたという、滑稽な人ではないのか?
しかし、現在はすっかり雰囲気が変わり、「私」にまっとうなアドバイスをします。
どんな賢明な人でも、若いころには失敗をするが、それは後悔すべきことではない、
なぜなら賢人は、ありとあらゆる滑稽なことをしたあとでないとなれないから、と。
「駆け出しのころの自分のすがたなど、もはや見わけがつかなくなっていますが、い
ずれにせよ不愉快なものであるのは、私にはよくわかります。だからといってそれを
否認してはいけません。それはわれわれがほんとうに生きてきた証なのです。」(P478)
またエルスチールは、ある女の肖像画を持っていて、それを見せたがりませんでした。
それは、スワン夫人の若かりし頃の姿なのではないか? 彼はなぜそれを描いたのか?
エルスチールのおかげで、「私」はアルベルチーヌとその仲間たちと知り合いました。
そして、ジルベルトの時と同じように、「私」は彼女たちと頻繁に会って遊びました。
あるときアルベルチーヌが、「あなたのこと、好きよ」とメモに書いてよこして・・・
アルベルチーヌと手と手が触れ合ったとき、彼女の自分に対する愛を確信して・・・
そして、アルベルチーヌがグランド・ホテルに泊まる夜、「私」を部屋に招きました。
「私」が接吻をしようとすると・・・アルベルチーヌはどんな行動に出たのか?
「花咲く乙女たち」とせっかく知り合ったのに、肝心なことはまだ何も起こりません。
ある夏のリゾート地で、彼らは出会ってそして去って行った、というだけなのです。
アルベルチーヌも突如いなくなってしまいますし。この先、どうなるのでしょうか?
当初、ここまで読んだら終わりにしようと思っていましたが、これでは終われません。
さて、この先「失われた時を求めて」は、第三篇「ゲルマントのほう」に続きます。
第三篇に進むのが正攻法ですが、岩波文庫全14巻を読み通す気力はありません。
失われた時を求めて(5)――ゲルマントのほうI (岩波文庫)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/05/17
- メディア: 文庫
ところでここに、第一篇→第二篇→第六篇→第七篇という読み方を勧める人がいます。
「りきぞう」さんという方です。邪道ですが、私はこれもひとつの方法だと思います。
→ https://rikizoamaya.com/proust-timessummary/
さいごに。(見殺しにした者の罪は重い)
ジャニーズ問題については、さまざまに論じられています。
ジャニー氏がいなくなった今、テレビ局は急に正義の味方を演じ始めたみたいです。
しかし今のテレビ局は、自分たちの罪を覆い隠すために報道しているように見えます。
ジャニー氏が生きていたとき、見て見ぬふりをしてきたテレビ局の罪は非常に重い。
コメント 0