チボー家の人々7 父の死 [20世紀フランス文学]
「チボー家の人々」 マルタン・デュ・ガール作 山内義雄訳 (白水Uブックス)
3人の青年たちが成長していく10年を、世界情勢を交えながら描いた大河小説です。
全8部(新書で13巻)です。第6部「父の死」は1929年の刊行です。
アントワーヌがジャックを迎えに行っているころ、チボー氏は死の床にありました。
死を前にして恐怖するチボー氏は、ヴェカール司祭に自分の苦しみをぶちまけます。
「主だと? 何を言う? なんのおたすけだ? ばかげている! ことのおこりは、
その主にあるんだ! その主がしむけたことなのだ・・・」(P16)
「あなたのような信者なら、安心して世を去れます」と言う司祭に、断固言います。
「黙れ! 信者だと? じょうだんじゃない。わしはけっして信者ではない。」と。
死を目の前にして、チボー氏は自分の一生を素直に振り返り、むせび泣きました。
司祭が言うことは気休めにしか聞こえず、彼はなりふりかまわず喚き散らしました。
アントワーヌが着いたとき、チボー氏は腎臓が詰まって、ベッドに倒れていました。
それを抱き起したのはジャックです。しかし、父にそれが分かったのかどうか。
チボー氏は苦しみ続けます。ジャックは、なぜモルヒネ注射をやめたのか聞きます。
アントワーヌは答えます。排泄が止まったから、それをやると殺すことになる、と。
苦労して父を入浴させましたが、小康状態もつかの間、再び発作が始まりました。
苦しむ父を前に、ジャックは「なんとかならないのか」とアントワーヌに言います。
「方法がひとつある」とアントワーヌは答えます。「このおれにはできるんだ」と。
そして、ふたりがとった行動は・・・「お父さん、楽にしてあげますから」・・・
第6部「父の死」は、前半の最後を飾る巻であり、前半のクライマックスです。
父チボー氏の最期を描き、たいへん読み応えのある巻となっています。
これまで厳粛だった父が、子どものように泣きわめく姿に、親近感を覚えました。
死を前にしてやっと自分の欺瞞に気付き後悔する場面に、人生の悲哀を感じました。
「利己主義! 虚栄! 金持ちになりたい、支配してやりたいという渇望! 人から
尊敬され、何か一役演じたいためのひけらかしの慈善! 不純、見せかけ、虚偽——
そうだ、虚偽だ・・・ああ、なんとかしてこれらのすべてを消し去りたい」(P21)
父の死は、ふたりの兄弟にとても大きな衝撃を与えました。
弟のジャックは虚無の念に襲われ、死の前に生は無意味だと考えました。
「人はいったい、なんで望んだりするのだろう? いったい何を望むというのだろう!
人生はすべてはいかにも愚劣だ。何ものも、ぜったいに何ものも——人にして死とい
うものを知ったが最後——もはや存在の意味がないのだ!」(P212)
一方、医者である兄のアントワーヌは、ここで大きな決断をしました。
それは、第4部「診察」において、彼が最後まで賛成できなかったことなのです。
今やアントワーヌは、罪の意識や神への信仰について、根本から考え直しています。
最終章における、アントワーヌとヴェカール司祭との対話は、とても味わい深いです。
「あなたがた、カトリックのかたがたが罪と呼んでおいでのもの、それはぼくにとって
むしろ反対に、溌溂としたもの、力づよいもの、また本能的な—―ためになるもの、と
いったように思われるんです!」(P253)
さて私は、これまでチボー家を支配していた父の死をもって、前半の終了と考えます。
このあと、第7部「1914年夏」が4巻にわたって続きます。第一次大戦が始まります。
さいごに。(ああ、恥ずかしや、恥ずかしや)
そういえば、以前から気になっていたのです。レジでの「ワオーン」という変な音が。
「あんな音をたてて、よくこの人は恥ずかしくないものだ」と、感心していたのです。
それなのに、まさかこの私に、あんな恥ずかしい音を出させるなんて!
おのれ、WAONめ! 絶対に許さん。
3人の青年たちが成長していく10年を、世界情勢を交えながら描いた大河小説です。
全8部(新書で13巻)です。第6部「父の死」は1929年の刊行です。
アントワーヌがジャックを迎えに行っているころ、チボー氏は死の床にありました。
死を前にして恐怖するチボー氏は、ヴェカール司祭に自分の苦しみをぶちまけます。
「主だと? 何を言う? なんのおたすけだ? ばかげている! ことのおこりは、
その主にあるんだ! その主がしむけたことなのだ・・・」(P16)
「あなたのような信者なら、安心して世を去れます」と言う司祭に、断固言います。
「黙れ! 信者だと? じょうだんじゃない。わしはけっして信者ではない。」と。
死を目の前にして、チボー氏は自分の一生を素直に振り返り、むせび泣きました。
司祭が言うことは気休めにしか聞こえず、彼はなりふりかまわず喚き散らしました。
アントワーヌが着いたとき、チボー氏は腎臓が詰まって、ベッドに倒れていました。
それを抱き起したのはジャックです。しかし、父にそれが分かったのかどうか。
チボー氏は苦しみ続けます。ジャックは、なぜモルヒネ注射をやめたのか聞きます。
アントワーヌは答えます。排泄が止まったから、それをやると殺すことになる、と。
苦労して父を入浴させましたが、小康状態もつかの間、再び発作が始まりました。
苦しむ父を前に、ジャックは「なんとかならないのか」とアントワーヌに言います。
「方法がひとつある」とアントワーヌは答えます。「このおれにはできるんだ」と。
そして、ふたりがとった行動は・・・「お父さん、楽にしてあげますから」・・・
第6部「父の死」は、前半の最後を飾る巻であり、前半のクライマックスです。
父チボー氏の最期を描き、たいへん読み応えのある巻となっています。
これまで厳粛だった父が、子どものように泣きわめく姿に、親近感を覚えました。
死を前にしてやっと自分の欺瞞に気付き後悔する場面に、人生の悲哀を感じました。
「利己主義! 虚栄! 金持ちになりたい、支配してやりたいという渇望! 人から
尊敬され、何か一役演じたいためのひけらかしの慈善! 不純、見せかけ、虚偽——
そうだ、虚偽だ・・・ああ、なんとかしてこれらのすべてを消し去りたい」(P21)
父の死は、ふたりの兄弟にとても大きな衝撃を与えました。
弟のジャックは虚無の念に襲われ、死の前に生は無意味だと考えました。
「人はいったい、なんで望んだりするのだろう? いったい何を望むというのだろう!
人生はすべてはいかにも愚劣だ。何ものも、ぜったいに何ものも——人にして死とい
うものを知ったが最後——もはや存在の意味がないのだ!」(P212)
一方、医者である兄のアントワーヌは、ここで大きな決断をしました。
それは、第4部「診察」において、彼が最後まで賛成できなかったことなのです。
今やアントワーヌは、罪の意識や神への信仰について、根本から考え直しています。
最終章における、アントワーヌとヴェカール司祭との対話は、とても味わい深いです。
「あなたがた、カトリックのかたがたが罪と呼んでおいでのもの、それはぼくにとって
むしろ反対に、溌溂としたもの、力づよいもの、また本能的な—―ためになるもの、と
いったように思われるんです!」(P253)
さて私は、これまでチボー家を支配していた父の死をもって、前半の終了と考えます。
このあと、第7部「1914年夏」が4巻にわたって続きます。第一次大戦が始まります。
さいごに。(ああ、恥ずかしや、恥ずかしや)
そういえば、以前から気になっていたのです。レジでの「ワオーン」という変な音が。
「あんな音をたてて、よくこの人は恥ずかしくないものだ」と、感心していたのです。
それなのに、まさかこの私に、あんな恥ずかしい音を出させるなんて!
おのれ、WAONめ! 絶対に許さん。
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