失われた時を求めて9 [20世紀フランス文学]
「失われた時を求めて5」 マルセル・プルースト作 吉川一義訳 (岩波文庫)
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第三篇「ゲルマントのほう」は、1920年から21年にかけて刊行されました。
今回は、その第一部の前半を紹介します。舞台はパリと兵営ドン・シエールです。
パルベックから戻ったあと、語り手の「私」たち一家は、パリへ引っ越しました。
ゲルマントの館にあるアパルトマンに入り、ゲルマント家との交流が始まりました。
コンブレ―には二つの散歩道があり、その一方がゲルマントの館に続いていました。
こうして「私」は思いがけなく、憧れの「ゲルマントのほう」へ歩き始めたのです。
ラ・ベルマの「フェードル」の切符が手に入って、「私」はオペラ座に行きました。
以前失望したラ・ベルマの演技に、賞賛の念を抱いたことを、不思議に思いました。
「私」は考えます。かつてはその才能に期待し、それを見つけようとしていました。
しかしその才能は役と一体に溶け合っていて、それを分けることはできないのだと。
「(舞台での身振りは)当初の意図的痕跡をぬぐい去られ、一種の放射状の輝きのな
かに溶けこんで、フェードルという登場人物のまわりに豊饒で複雑なさまざまな要素
を脈打たせていたが、それに魅了された観客は、それを役者の成果とは思わず、ひと
つの生命の発露と受けとるのだ。」(P109)
遅れて来たゲルマント公爵夫人が、ゲルマント大公妃のベニョワール席に入りました。
二人は従妹同士ですが、簡素を好む侯爵夫人と、派手な装いの大公妃は対照的でした。
やがて、侯爵夫人は「私」の姿を見つけ、手を挙げて友情の合図を送ってくれました。
「私」はゲルマント公爵夫人に感謝するとともに、彼女を慕うようになったのです。
「私」は、毎朝ゲルマント公爵夫人の散歩コースにわざとらしく現れ、挨拶をし・・・
「私」は、侯爵夫人に対する自分の気持ちを、サン・ルーから伝えてもらおうと・・・
この巻では、ゲルマント公爵夫人への憧れが、いっきに高まる場面が読みどころです。
そして「私」はストーカーまがいの行動をとって、侯爵夫人から迷惑がられるのです。
このとき「私」は20歳ぐらいでしょう。侯爵夫人への思いは恋に対する恋のようです。
侯爵夫人自身への思いというより、「ゲルマント」という名前に対する憧れが大きい。
それは、自分がブルジョア階級であり、伝統ある大貴族ではないからでしょうか。
「私」は自分の思いを伝えるため、サン・ルーのいるドンシエールを訪問さえし・・・
サン・ルーに、侯爵夫人の写真をもらえないかと、遠回しに頼むところは面白いです。
サン・ルーが拒んだのは、おそらく「私」のためにならないと感じたからでしょう。
さて、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」までは、コミック版が出ていました。
コミック版を並行して読み進めることで、物語の世界がとてもよく頭に入りました。
第三篇「ゲルマントのほう」からは、コミック版が出ていません。ではどうするか?
私は、巻末にある「場面索引」を使うことをオススメします。これは実に便利です。
邪道かもしれませんが、私は本文を読む前に「場面索引」にひととおり目を通します。
そうすることで、あちこちに飛ぶ物語の筋が、格段にとらえやすくなるからです。
さいごに。(インフルエンザ)
先週は暑かったのに、急に寒くなりました。秋がなくて、いっきに冬が来ました。
インフルエンザが流行り始めました。免疫が無くなっているので、注意したいです。
記憶の中から失われた時を紡ぎ出して、人生の本質を考察する長大な小説です。
20世紀を代表する作品であり、世界一長い小説としてギネスに登録されています。
第三篇「ゲルマントのほう」は、1920年から21年にかけて刊行されました。
今回は、その第一部の前半を紹介します。舞台はパリと兵営ドン・シエールです。
失われた時を求めて(5)――ゲルマントのほうI (岩波文庫)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/05/17
- メディア: 文庫
パルベックから戻ったあと、語り手の「私」たち一家は、パリへ引っ越しました。
ゲルマントの館にあるアパルトマンに入り、ゲルマント家との交流が始まりました。
コンブレ―には二つの散歩道があり、その一方がゲルマントの館に続いていました。
こうして「私」は思いがけなく、憧れの「ゲルマントのほう」へ歩き始めたのです。
ラ・ベルマの「フェードル」の切符が手に入って、「私」はオペラ座に行きました。
以前失望したラ・ベルマの演技に、賞賛の念を抱いたことを、不思議に思いました。
「私」は考えます。かつてはその才能に期待し、それを見つけようとしていました。
しかしその才能は役と一体に溶け合っていて、それを分けることはできないのだと。
「(舞台での身振りは)当初の意図的痕跡をぬぐい去られ、一種の放射状の輝きのな
かに溶けこんで、フェードルという登場人物のまわりに豊饒で複雑なさまざまな要素
を脈打たせていたが、それに魅了された観客は、それを役者の成果とは思わず、ひと
つの生命の発露と受けとるのだ。」(P109)
遅れて来たゲルマント公爵夫人が、ゲルマント大公妃のベニョワール席に入りました。
二人は従妹同士ですが、簡素を好む侯爵夫人と、派手な装いの大公妃は対照的でした。
やがて、侯爵夫人は「私」の姿を見つけ、手を挙げて友情の合図を送ってくれました。
「私」はゲルマント公爵夫人に感謝するとともに、彼女を慕うようになったのです。
「私」は、毎朝ゲルマント公爵夫人の散歩コースにわざとらしく現れ、挨拶をし・・・
「私」は、侯爵夫人に対する自分の気持ちを、サン・ルーから伝えてもらおうと・・・
この巻では、ゲルマント公爵夫人への憧れが、いっきに高まる場面が読みどころです。
そして「私」はストーカーまがいの行動をとって、侯爵夫人から迷惑がられるのです。
このとき「私」は20歳ぐらいでしょう。侯爵夫人への思いは恋に対する恋のようです。
侯爵夫人自身への思いというより、「ゲルマント」という名前に対する憧れが大きい。
それは、自分がブルジョア階級であり、伝統ある大貴族ではないからでしょうか。
「私」は自分の思いを伝えるため、サン・ルーのいるドンシエールを訪問さえし・・・
サン・ルーに、侯爵夫人の写真をもらえないかと、遠回しに頼むところは面白いです。
サン・ルーが拒んだのは、おそらく「私」のためにならないと感じたからでしょう。
さて、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」までは、コミック版が出ていました。
コミック版を並行して読み進めることで、物語の世界がとてもよく頭に入りました。
第三篇「ゲルマントのほう」からは、コミック版が出ていません。ではどうするか?
私は、巻末にある「場面索引」を使うことをオススメします。これは実に便利です。
邪道かもしれませんが、私は本文を読む前に「場面索引」にひととおり目を通します。
そうすることで、あちこちに飛ぶ物語の筋が、格段にとらえやすくなるからです。
さいごに。(インフルエンザ)
先週は暑かったのに、急に寒くなりました。秋がなくて、いっきに冬が来ました。
インフルエンザが流行り始めました。免疫が無くなっているので、注意したいです。
2023-11-14 06:01
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