石蹴り遊び1 [20世紀ラテンアメリカ文学]
「石蹴り遊び 上」 コルタサル作 土岐恒二訳 (集英社文庫)
絶対的なものを求めて彷徨する、アルゼンチン青年オリベイラを描いた長編小説です。
1963年に出てブームを巻き起こしました。いくつもの読み方が可能な、問題作です。
1995年に集英社文庫から出ましたが、現在は絶版。中古は、上下で4000円ほどです。
私は上下二冊を2000円ちょいで手に入れました。訳は比較的分かりやすかったです。
この小説は全155章あり、三部構成となっています。
そして、いくつもの読み方ができる点が、最大の特徴となっています。
第一部「向こう側から」は、第1章から第36章までで、舞台はフランスのパリです。
主人公オリベイラと、シングルマザーのラ・マーガとの、愛と別れが描かれています。
第二部「こちら側から」は、第37章から第56章までで、舞台はブエノスアイレス。
故国に帰ったオリベイラは、親友トラベラーとその妻タリタと、三角関係になります。
第三部「その他もろもろの側から」は、第57章から第155章までです。
新聞記事、メモ、何かの引用など、雑多な断章が、一見無意味に集められています。
さて、作品の冒頭に、作者は「指定表」なるものを置いています。
そして、次の二通りの読み方のうち、いずれか一方を選択するよう述べています。
第1の読み方は、普通の方法に従って、第一部から第二部まで読むというものです。
その場合、第三部の雑多な断章は、「なんの未練もなく放り出して」もよいと言う。
第2の読み方は、第73章から始めて1、2、116、3、84、4、71・・・というように、
指定表の順序に従って、第三部の断章を挟み込みながら読んでいくというものです。
もちろん私は、第2の方法を選択しました。第三部を切り捨てるなんてできません。
いったい、第1の方法を取る人がいるのでしょうか?
ところが読み始めてすぐ、私は挫折しそうになりました。意味が分からないのです。
そもそも登場人物らは、なんだか人を煙に巻いたようなことばかりを言っています。
「絶対ってなんなの、オラシオ?」
「いいかい」とオリベイラは言った。「それは煎じ詰めればなにかがその深さの極限、
その射程の極限、その意味の極限に到達してしまい、面白味を完全に失ってしまう瞬
間のことさ」(P66)
「ものの事物性ってなに?」とラ・マーガが尋ねた。
「ものの事物性というのは、われわれの推測の終るところにわれわれの罰が始まると
いうあの不愉快な感情のことです。」(P108)
こういう会話があちこち散乱している上に、第三部の雑多な断章が紛れ込むのです。
ひどすぎて引用できません。たとえば第68章や第96章などを読んでみてください。
しかし、突然こういう断章に飛ぶところが、「石蹴り遊び」たるゆえんなのでしょう。
蹴った石が変な場所へ飛び、新しい展開が始まる点こそ、その醍醐味かもしれません。
それに第三部には、意外と大事な場面が混ざっているのです。いわば、玉石混淆です。
特に最後の第154章と第155章は、この作品のネタばらし的な部分でとても重要です。
現在、第2の方法で、第一部を(第36章まで)読みました。まだ全体の6割ほどです。
正直に言って、私は、ここまでの物語の半分ほどしか理解できていないと思います。
では、ほかの人たちはどんなふうにこの本を読んでいるのでしょうか。
そこでようやく、「ラテンアメリカ十大小説」にあった読み方を思い出しました。
そこで勧めているのは、最初に第1の方法で読んで次に第2の方法で読むという方法。
そうすると、第2の方法で読んでいるとき、全く新しい景色に出会うのだそうです。
なるほど! 私もそうしたかった。
しかし、今更もう一度この作品を読み直す気力なんて、とてもありません。あーあ。
さいごに。(半沢直樹、面白すぎ)
半沢直樹にはまっています。実に面白い。何年かぶりに、ドラマを毎週見ています。
どんな苦境も諦めずに全力で乗り切るところが、かっこいいです。元気をもらえます。
絶対的なものを求めて彷徨する、アルゼンチン青年オリベイラを描いた長編小説です。
1963年に出てブームを巻き起こしました。いくつもの読み方が可能な、問題作です。
1995年に集英社文庫から出ましたが、現在は絶版。中古は、上下で4000円ほどです。
私は上下二冊を2000円ちょいで手に入れました。訳は比較的分かりやすかったです。
この小説は全155章あり、三部構成となっています。
そして、いくつもの読み方ができる点が、最大の特徴となっています。
第一部「向こう側から」は、第1章から第36章までで、舞台はフランスのパリです。
主人公オリベイラと、シングルマザーのラ・マーガとの、愛と別れが描かれています。
第二部「こちら側から」は、第37章から第56章までで、舞台はブエノスアイレス。
故国に帰ったオリベイラは、親友トラベラーとその妻タリタと、三角関係になります。
第三部「その他もろもろの側から」は、第57章から第155章までです。
新聞記事、メモ、何かの引用など、雑多な断章が、一見無意味に集められています。
さて、作品の冒頭に、作者は「指定表」なるものを置いています。
そして、次の二通りの読み方のうち、いずれか一方を選択するよう述べています。
第1の読み方は、普通の方法に従って、第一部から第二部まで読むというものです。
その場合、第三部の雑多な断章は、「なんの未練もなく放り出して」もよいと言う。
第2の読み方は、第73章から始めて1、2、116、3、84、4、71・・・というように、
指定表の順序に従って、第三部の断章を挟み込みながら読んでいくというものです。
もちろん私は、第2の方法を選択しました。第三部を切り捨てるなんてできません。
いったい、第1の方法を取る人がいるのでしょうか?
ところが読み始めてすぐ、私は挫折しそうになりました。意味が分からないのです。
そもそも登場人物らは、なんだか人を煙に巻いたようなことばかりを言っています。
「絶対ってなんなの、オラシオ?」
「いいかい」とオリベイラは言った。「それは煎じ詰めればなにかがその深さの極限、
その射程の極限、その意味の極限に到達してしまい、面白味を完全に失ってしまう瞬
間のことさ」(P66)
「ものの事物性ってなに?」とラ・マーガが尋ねた。
「ものの事物性というのは、われわれの推測の終るところにわれわれの罰が始まると
いうあの不愉快な感情のことです。」(P108)
こういう会話があちこち散乱している上に、第三部の雑多な断章が紛れ込むのです。
ひどすぎて引用できません。たとえば第68章や第96章などを読んでみてください。
しかし、突然こういう断章に飛ぶところが、「石蹴り遊び」たるゆえんなのでしょう。
蹴った石が変な場所へ飛び、新しい展開が始まる点こそ、その醍醐味かもしれません。
それに第三部には、意外と大事な場面が混ざっているのです。いわば、玉石混淆です。
特に最後の第154章と第155章は、この作品のネタばらし的な部分でとても重要です。
現在、第2の方法で、第一部を(第36章まで)読みました。まだ全体の6割ほどです。
正直に言って、私は、ここまでの物語の半分ほどしか理解できていないと思います。
では、ほかの人たちはどんなふうにこの本を読んでいるのでしょうか。
そこでようやく、「ラテンアメリカ十大小説」にあった読み方を思い出しました。
そこで勧めているのは、最初に第1の方法で読んで次に第2の方法で読むという方法。
そうすると、第2の方法で読んでいるとき、全く新しい景色に出会うのだそうです。
なるほど! 私もそうしたかった。
しかし、今更もう一度この作品を読み直す気力なんて、とてもありません。あーあ。
さいごに。(半沢直樹、面白すぎ)
半沢直樹にはまっています。実に面白い。何年かぶりに、ドラマを毎週見ています。
どんな苦境も諦めずに全力で乗り切るところが、かっこいいです。元気をもらえます。
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