緑の家1 [20世紀ラテンアメリカ文学]
「緑の家 上」 バルガス=リョサ作 木村榮一訳 (岩波文庫)
三つの場所で繰り広げられる五つの物語が、絡み合いながら展開する長編小説です。
作者はラテンアメリカ文学ブームを牽引した一人で、ペルー初のノーベル賞作家です。
シスターと治安警備隊は、密林のインディオの集落で、少女たちを連れ去りました。
拉致した少女たちを、サンタ・マリーア・デ・ニエバの尼僧院で教育しているのです。
尼僧院で働くボニファシアは、彼女たちを可哀そうに思って、故意に逃がしました。
そのため、僧院を追われることになり・・・
あるときピウラに流れてきたアンセルモという男は、町の人々と親しくなりました。
しばらくして彼は、砂漠の土地に「緑の家」を建てましたが、その家は・・・
フシーアという日本人は、これまでさまざまな場所で、悪事を働いてきました。
今は、旧友アキリーノのボートに乗り、昔を思い出しながら、奥地へ向かい・・・
現在、上巻を読み終わったところです。
ラテンアメリカ文学特有の、わざと分かりにくくしたような展開に苦しんでいます。
「五つの物語が絡み合いながら展開する」ということを、どこかで聞いていました。
しかし私は、恥ずかしながら、3つの物語しか判別できませんでした。
1つは「尼僧院とボニファシアの物語」。1つは「緑の家とアンセルモの物語」。
1つは「フシーアの語る昔の物語」。その他の物語が、よく分からないのです。
ほかにもいろんな人物が登場しますが、ごちゃごちゃしていて整理しきれません。
読んでいるうちに、さまざまな矛盾にぶつかり、私は頭を抱えています。
たとえば、尼僧院にいたボニファシアは、密林の奥で、前触れなく姿を見せます。
また、緑の家を繁盛させていたアンセルモは、いつのまにか盲目になっています。
行政官と呼ばれる男は、ある場面ではファビオで、ある場面ではレアテギです。
どうやらそれぞれの場面で、時間の隔たりがあるようだとは分かるのですが・・・
「地図を作った連中はこのアマゾン地方が片時もじっとしていない、燃えるような
女みたいなものだってことが分かってないんだ。ここでは、川も木も生き物もすべ
てその姿を変えてゆく。わしたちが住んでいるのは狂った大地なんだよ。」(P84)
これは、アキリーノがフシーアに語った、印象的な言葉です。
私は、この物語自体も、じっとしていないアマゾンの密林のように感じました。
私も歩くたびにつるに足を取られ、気づいたら同じ場所を何度も回っていました。
作者は、意図的に私たちを、物語の密林に迷い込ませようとしているようです。
コロナ休業で比較的時間があるときなら、多少の回り道もいいでしょう。
読書時間がほとんど取れない今、「もっと分かりやすく書いてくれ」と思います。
しかし、この作品を「ワクワクしながら読んだ」と記すレビューも目立ちます。
下巻に入ってから、その面白さが理解できるようになればいいのだけれども・・・
さいごに。(娘にアドバイスしても)
中2の娘が、友達の誕生日のプレゼントに迷っていたので、アドバイスしました。
「どんなものが欲しいか聞いてみたら?」と。分からないなら、聞けばいいのに。
「パパは黙っていて!」と言われました。「女子はそういうもんじゃない」と。
そうか。女子ってたいへんなんだなあ。私は男でよかったです。単純だから。
三つの場所で繰り広げられる五つの物語が、絡み合いながら展開する長編小説です。
作者はラテンアメリカ文学ブームを牽引した一人で、ペルー初のノーベル賞作家です。
シスターと治安警備隊は、密林のインディオの集落で、少女たちを連れ去りました。
拉致した少女たちを、サンタ・マリーア・デ・ニエバの尼僧院で教育しているのです。
尼僧院で働くボニファシアは、彼女たちを可哀そうに思って、故意に逃がしました。
そのため、僧院を追われることになり・・・
あるときピウラに流れてきたアンセルモという男は、町の人々と親しくなりました。
しばらくして彼は、砂漠の土地に「緑の家」を建てましたが、その家は・・・
フシーアという日本人は、これまでさまざまな場所で、悪事を働いてきました。
今は、旧友アキリーノのボートに乗り、昔を思い出しながら、奥地へ向かい・・・
現在、上巻を読み終わったところです。
ラテンアメリカ文学特有の、わざと分かりにくくしたような展開に苦しんでいます。
「五つの物語が絡み合いながら展開する」ということを、どこかで聞いていました。
しかし私は、恥ずかしながら、3つの物語しか判別できませんでした。
1つは「尼僧院とボニファシアの物語」。1つは「緑の家とアンセルモの物語」。
1つは「フシーアの語る昔の物語」。その他の物語が、よく分からないのです。
ほかにもいろんな人物が登場しますが、ごちゃごちゃしていて整理しきれません。
読んでいるうちに、さまざまな矛盾にぶつかり、私は頭を抱えています。
たとえば、尼僧院にいたボニファシアは、密林の奥で、前触れなく姿を見せます。
また、緑の家を繁盛させていたアンセルモは、いつのまにか盲目になっています。
行政官と呼ばれる男は、ある場面ではファビオで、ある場面ではレアテギです。
どうやらそれぞれの場面で、時間の隔たりがあるようだとは分かるのですが・・・
「地図を作った連中はこのアマゾン地方が片時もじっとしていない、燃えるような
女みたいなものだってことが分かってないんだ。ここでは、川も木も生き物もすべ
てその姿を変えてゆく。わしたちが住んでいるのは狂った大地なんだよ。」(P84)
これは、アキリーノがフシーアに語った、印象的な言葉です。
私は、この物語自体も、じっとしていないアマゾンの密林のように感じました。
私も歩くたびにつるに足を取られ、気づいたら同じ場所を何度も回っていました。
作者は、意図的に私たちを、物語の密林に迷い込ませようとしているようです。
コロナ休業で比較的時間があるときなら、多少の回り道もいいでしょう。
読書時間がほとんど取れない今、「もっと分かりやすく書いてくれ」と思います。
しかし、この作品を「ワクワクしながら読んだ」と記すレビューも目立ちます。
下巻に入ってから、その面白さが理解できるようになればいいのだけれども・・・
さいごに。(娘にアドバイスしても)
中2の娘が、友達の誕生日のプレゼントに迷っていたので、アドバイスしました。
「どんなものが欲しいか聞いてみたら?」と。分からないなら、聞けばいいのに。
「パパは黙っていて!」と言われました。「女子はそういうもんじゃない」と。
そうか。女子ってたいへんなんだなあ。私は男でよかったです。単純だから。
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